3つ年上の兄と、2つ下の弟に挟まれて育った中間子のワタクシ。
憎まれ口が最高の褒め言葉だと思っている父親が居て、言いたい放題・・・いや、言われたい放題で育った。
なので、恐ろしく勘違いをしないで成長した。
「可愛い」なんてダイレクトの誉めてくれる表現は皆無に等しかった。
なので、今になっても
「オマエ、老けたな。」by 兄 (毎回の挨拶だと思ってるらしい)
「ねぇちゃん、それでいいと思ってるの?」by 弟
「やっぱり、まだまだだな。」by 父
という会話がある。(会話か?)
「老けたことも事実」「いいと思っていることも事実」「まだまだなのも承知」
自分がたいしたことがないことくらい知っている。
時折、世間様におだてられて勘違いしそうになりそうになるが、冷水を浴びさせてくれて目が覚める。
おぉっと、勘違いしちゃいそうになってたわ。と。
それでも、自分のことを肯定することが出来ていたし、そのひとつひとつの言葉をいちいち否定的に捉えるようなヒマはない。
その不用意な他者の言葉に振り回されていたら、自分を見失うだけだ。
そう思ったから、口にする。
そう感じたから、相手に伝える。
そう思う人が居る。ということを考えさせてくれる。
そう。家族はとても貴重な存在なのだ。
事実を教えてくれる、苦言を呈してくれる存在として。
それが、茶飯事だからこそ、事実を伝えることに抵抗がないのかもしれない。
相手が傷つくことは、何なのだろう。
大したこともないのに誉めておいて、裸の王様にして、知らぬは本人のみ。
という方がよっぽどみっともないのだと思っている。
だから、事実を伝える。
「センスないな。」ということも。そのまま伝える。だって、センスがないから。
「そのペットボトルの飲み方はなんだ。だせー。」と中学生の頃に言われたことや、
「その色のパンツ、ヤバい。」とか。
「知ったかぶりが一番かっこ悪いよな。」とか。
「手編みの手袋なんて、怖くて着用できないぜ。」とか。
「手作りチョコなんて、何入っているか分かんないよな。」とか。
そんな家族だったので、今でも言いたい放題な関係はあり、ただ何より重要なことは何かということだけは、共通認識としてそれぞれが持っていた。
「自分の家族だからこそ、よく在って欲しい。」だと思う。
どんなに暴言を吐かれても、それが本当の暴言なのか、不用意に傷つけるものなのか。
不思議と悪意からではない感覚は家族ならでは。
相手を大切に思うことは、事実を隠すことではなくそれを受け止めてどうするのか。
そのことが相手に対する思いやりであり、愛情だから。
前田カオリコ
話し方プロデューサー 魅話力 (R)
1976年生まれ 新宿区在住
2児の母
新宿区発のママ*サークル「ブルーミング・マム」代表
新宿区子ども・子育て会議委員
2016年度 新宿子育てメッセ 実行委員長
昭和女子大学 社会人メンター
小学校英語指導者資格
日本メンタルヘルス協会 公認心理カウンセラー
『魅話力®』検定 作成中